ろんだ帳簿

知識整理のためのメモ帳みたいなものです。数学専攻の院生やってます。

講義に出る意味

大学院の講義にろくに出られてないろんだです。

さて、私は学部時代もあまり講義に出ていなかったのですが、B1の頃の微積分と線型代数の講義はまあまあ出ていました。M1前期では講義に出ていたのでちょうどB1の頃を思い出し、講義に出る意味について考えてみたいと思い至りました。

私の専攻は数学なのですが、数学という分野は他分野よりも独習しやすいと思っています。趣味で哲学書を読むことがありますが、圧倒的に数学書の方が誰にも教わらなくても意味が理解できます。これには哲学書はその本で閉じた独特の用語使いがあるにも関わらず定義が曖昧なことがあるのに対して、数学書は言葉をしっかりと定義してくれるので、日常語と本における用語の混同を避けることが簡単である点が挙げられると思います。まぁこのことに関しては書き始めると記事1つ分は軽く終わってしまうのでまた今度の機会に。

独習が簡単だと述べた数学において、講義に出る意味とはなんなのでしょうか?これは本という体系化され、洗練された文章を読み解く時に―――数学書であるからしっかりと理解すれば解釈の揺らぎはなくなるでしょうが―――非厳密的なイメージが伴うところにキーポイントがあると見ています。この非厳密的なイメージは記号とその結合による文章の理解とは別に個人個人の持った独自の世界観だと考えています。そこで微積分、線型代数のような大学数学の初歩において講義に出る意味が生じてくるのではないでしょうか?と、言われても雑な言い方なので詳しくその理由を述べたいと思います。先ほど「非厳密的なイメージは記号とその結合による文章の理解とは別に個人個人の持った独自の世界観」と述べましたが、初学者はこのイメージを獲得する能力が育ってないので独習するという壁を超えることが難しくなっています(少なくとも私はそうでした)。そこで講義で教官が「本に書いてある内容を教官がどのように読み解いて、イメージを作ったか」という語り手の役目を担い、その方法を学び取ることで、先ほど挙げた能力が育っていくものだと考えます。つまり、講義を受ける意味は、数学を講義で理解することよりも、数学に対するイメージを作る方法を学ぶことにあると思っています。

以上のことから、もしこの記事をB1の方が読んでいるならば、講義で数学を理解するステップは上記のイメージを獲得する方法の勉強の妨げになるので予習を強くオススメします。

余談ですが、講義90分を連続して集中することは難しいという人が多いと思うので、45分で切って5分ほどボーっとして休憩するのもかまわないんじゃないのかな?